昭和44年05月02日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心の稽古をしにくるのである よく稽古をして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供があるものや日傭取りはでてくるわけにはいかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参っくる事はできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
いろいろに頂きますご理解ですね。病人があったり忙しかったりするときには、なかなかお参りがしにくい。そこでまめな時なんでもない時、参ってしっかり信心の稽古をしておけ、ところがそのうあれやらこれやらと、いろんな問題が起きて来たり、いわば病人が出来たりすると慌ててお参りをして来る。お参りしょうと思ゃいつでも、お参りが出来る時にお参りをしない。ですからここへんのところをひとつよく分かりゃ、金光様の御信心は楽だなぁと。
まぁ病人がある時やら、いわば毎日勤めなんかに出ておる人やらはね、お参りしなくても良い感じがするけれど、お参りが出来る時にお参りをしておかなければ、いつもまめな時ここへ参って信心の稽古をしとけ、というのはそんな事だと思う。お参りしょうと思やぁお参りが出来る時に信心を疎かにする。さぼっておる。そして少し忙しくなりかけたり、さぁ困った事だの病人がでけたということになってから慌て出す。ここへは信心の稽古をしにくるのである、よく信心の稽古をして帰れとね。
いわゆる日頃いわばお参りしょうと思えば参りが出来る時、しっかり信心の稽古をしておかなきゃならんね。そこでなら中村さんのように毎朝こうして、もう降っても照ってもまぁいうならば、朝の御祈念でもお参りをするという方は、その信心の稽古がいわゆるでけておる訳であるね、そでからというて稽古をしただけではやっぱいけん。例えばお花ならお花、お茶ならお茶の稽古、しっかり稽古が出来てござる、ところがそれを私は日常生活の上にもひとつの潤いとして。
又は日頃の行儀または作法の上にも、例えばお茶ならお茶の精神が生かされるようにそれが、稽古したことがいわゆる行使されなければ、稽古をした値打ちはない。さぁ何かの時だけいうならまさかの時だけ、それが役に立つというのではなくて、いつもがその稽古をした事がお役に立つというか、自分の日常生活の上に現されていくというふうに、現わされていかなければ値打ちがない。ここには信心の稽古をしに来る、稽古をしに来る、けれどもその稽古をした事を、例えば行の上に現さないと。
いよいよそれではなんというか、論語読みの論語知らずということになる。私根が商売人ですからまぁ商売の事で思うたら自分でも一番よく分かるし、皆さんにもそういつも聞いて貰うんですけれども。まぁとにかくまぁ私が大体が酒屋ですから、酒の商いをするね醸造元から卸値でお酒を仕入れてくる。仕入れて来ただけではなにもならん。それをやはりまたそれを卸売りする、小売というようにそのう売っていかにゃならん。まぁ今いうならここにそのお酒を仕入れに見えるようなもの。
してそれをやはり小売に、または卸に売りさばいていかなければいけん。仕入ればっかりで貯めとっちゃつまらん。それが一日売りさばかれていかなければ、いわば商売が立ち行かん、ようにね教えを頂いて教えを仕込んで、それをしっかり使わなければ、又はそれを売りさばく事の稽古をしっかりしなければ。よく御本部参拝をさしてもらう、御本部にはそういう意味で仕込みに行くところだとこういわれておるね、ほいでまぁ仕込んで来る訳ですね、仕入れてくる訳です。
こではね私は思うのに、皆さんにこう卸値で品物を売っておるようなもんだと思う。まぁいうならば品、まぁよい品物をどこよりも安く皆さんにね、お分けしているようなもの。いやよそにないような品物をここでは仕込んで、皆さんにお分けしておる。ですから皆さんがその気になれば、品物が品質が良いそして安い。だから必ず売れる。買うた人も喜ぶ又は売った人も、れだけ利益をうる事が出来る。せかっく卸値で皆さん分けてもろうておる、そのおかげをですね、ただ信心の稽古をしに来るというだけではなく。
仕込みに来るというだけではなく、それでは私はほんにつまらん結果になるとおもう。それを皆さんがしっかりそのう売りさばいていく、おかげを頂かなければいけん。まぁいうならば皆さんがここでこうして教えを頂かれる、皆さんの一人一人がひとつの拡声器代わりと申しましょうか、世の中にはね沢山な難儀な人が、様々な難儀から開放されたい、楽になりたい、というて思うておる人が沢山あるのですね。経済的に難儀をしておる人がある、病気で苦しんでおる人がある。人間関係で苦しんでおる人がある。
皆んなが求めて求めてやまぬ、難儀な様相というものがいっぱしである。それを皆さんが受けて帰って仕込んで帰って、それを皆に分けてあげる。ここでは例えば五十人なら五十人の人が、受けて帰るならばね、その一人一人が例えば、五人なり十人なりに受けることになると、その商品価値というかね、いわば金光様の御信心というものが、有り難いということを皆んなが分かってくることになる。そこに難儀な人達が助かっていくことになる。そういう働きがですね成される事を。
私は今日はここへは信心の稽古をしにくるのであるとこう仰せられる、ここには信心のいわば仕込みに来るところであると、せかっく安う分けてもろうたのですから、それをまた安う皆んなに小売をさせてもらうというようにですね、売るものもいくらかの利益をうけるならばね、又はそれを買うた人も、はぁこんな良い品物を始めて、しかもこんなに安う分けてもろうてというて喜ぶ。そういう私はここに信心の稽古に来るということは、稽古をしてその稽古をした事がそういうふうに現されて行かなければね。
それはもちろん銘々の人の家庭、また生活の上にもいうなら、それぞれの生活の現場においてですね、その信心の在り方というものが、みんなにいうなら披露されるというかね、皆んなにそれを安く分けてあげれるという、そういう働きをしていかなければいけんと。夜夜中どういうことがないとも限らん、おかげはわが家で受けよよと。稽古をしただけではなくて稽古がそういうふうに、私はぁいわゆる仕込んでいったものが、仕込んでいっただけではなくて、それが段々皆んなに分けられてね。
いわば卸値で買うて小売で売って、そこにいくらかの利益というものが貯まっていくというところからですね、私は夜夜中どういうことがないとも限らん、おかげはわが家で受けよと仰る様な、いわゆる我が家でおかげが受けられる、おかげが頂かれるとこう思う。ただ稽古をしただけで、それをひとつも行の上に現わして行きよらなかったらです、知っておるけれども持っておるけれどもそれは役に立たんね、いざというとき。利益をひとつも受けてないもの。
卸値で買うてそれを小売で売る幾らかのそのさやがね、出来るいわゆる利益を受ける。その利益が貯まっておるから、いつでもそれが使われるのである。子供があるものやら、日雇りは出て来る訳にはいかん、病人があったりすれば捨てておいて、参って来る事はできん確かにそうだ、ところがお互いはそういう忙しい事になったり、病人が有ったりする様な事になって慌てて買いに来るね、そういうのではです卸値で差し上げる訳にはいかん。やっぱり高い小売値で買うて帰らなきゃ出来んから。
それでは人には分けもされん。だからまめな時ここへ参って信心の稽古をしておけとこう仰るですから。まめな時というのは常平生ということ。なんでもない時にここへ参って信心の稽古をしっかりしておけ、信心の稽古をしておくということは、しっかりお話を頂いてね、御祈念の稽古をさせてもろうてね、というだけではなくって、それをね日々の生活の上にさばいておかなければならん毎日、教えを本気で行じさせてもろうて、私は今日はこのまいにせつを何時もまぁ様々な角度から頂くんですけれども。
今日はこのところをですね。ここではそのう皆んながその卸値で、まぁ買い受けておるようなもんだと、ですからその小売であの買ったのではない、卸値で買わせて頂いておるのであるから、それは必ず売って幾らか利益がある。例えばそれを自分ひとりのものにせずにね、いわゆる私が一人その拡声器変りになってです、それをまぁいうならば売りさばくところの、おかげを頂けば必ずそこに利があるという。利ということはまぁおかげということになるでしょうけども。
やはりお徳を蓄積するという事でもあると思うんです。そういう働きここでは卸値で買っておると、卸値で皆さんに分けておるという事は、ひとつよく考えなければいけない事だと思う。まぁいうならば教祖の神様ね、それから色々その何回も人の手に渡っておる様な、いうなら教祖の神様がまぁ直伝とでも言うかね、いうならその教えの直売所である。ですからここでは新しい品物を良い品物を、しかも卸値で買う事が出来る。
そういうふうに私は今日は感じたんですけどね。ですからそれを買わせていて頂いて、仕入させて頂いたらそれを例えば、さばかなければならないというところにですね、合楽に教えを頂いておる方達のひとつの、なんちゅうかねそれぞれがそういう責任を感じるね、いうなら責任を持ってですね、これこれだけの事は売り裁かなければいわば立ち行かんということになる。それをお互いの生活の現場においてそれをなされる。そういう私はおかげをですね。
受けていって初めて夜夜中でういう事があってもと、おかげの受けられるどんな事があっても、いうならば平常平常心というかね、日頃働いておる日頃売っておる、そこに利益ができておるはずである、その利益が貯まっていきよるから、夜夜中どういうことが起こっても驚かんですんだり、慌てんですむおかげが受けられるぞというふうに、まぁ今日は頂いたんですね、どうぞひとつ皆さんがそういう、まぁ確かにあのここではなんというかね、確かにその頂いた教えを。
銘々が日々の生活の上に現わして行けばです、おかげが受けられる良い良い品物だとね、というその自信を持ってですね、先ずおかげを受けなければいけない。そして自信を持ってそれをまた小売にしていくと、今日そこんところをですねその頂いて頂きたいね。それは自分の物にまずして、やっぱ自身がその自信を持たなければいけん。有り難いものだということをね。それをまた人に伝えていく小売にしていく、そこに私はこれは自然利益を受けることができる。
その利益が貯まり貯まって私はお徳になる。また銘々としてはいつ夜夜中どういうことが起こってきてもね、慌てんで済むだけのおかげを受けられると。いうところをひとつ今日は頂いて頂きたいと思うですね。どうぞ皆さんがこのごろ秋永先生が言っておる、八坂先生に説明をしておられたが、合楽ではまぁ一人の信者が二十人なり、又は五十人なり、そのお得意さんを持っておるという意味の事を言ってられる。
ですからいざという時には五十人おっても。例えばぱっと二百五十人になったり、五百人になったりする事が出来るんだとね、皆さんもそういうひとつの銘々がそういう、お得意さん地盤をもたなきゃいけん。それにはしっかりここに参って信心の稽古をしておくだけではなくて、その稽古をした事がです、本当のそれぞれの現場において、現わして行かれなければいけないという事なんですね。
どうぞ。